グラン・トリノ
昨日観たのは【グラン・トリノ】 映画を深読みできない僕が、前作【チェンジリング】に続きクリント・イーストウッド監督の最新作を観賞します。事前情報は予告編以外一切ナシ。どこまでこの映画の“言わんとするところ”まで近づけるでしょうか・・・・・?
妻に先立たれ、息子たちとも疎遠な元軍人のウォルト(クリント・イーストウッド)は、自動車工の仕事を引退して以来単調な生活を送っていた。そんなある日、愛車グラン・トリノが盗まれそうになったことをきっかけに、アジア系移民の少年タオ(ビー・ヴァン)と知り合う。やがて二人の間に芽生えた友情は、それぞれの人生を大きく変えていく・・・あらすじはこんな感じ(MOVIXより) 公式サイトは:http://www.grantorino.jp
感想です・・・・・・・・わからんw わからんけど、何かぼんやりとしたイメージだけが残っています。アメリカはいつからこんなにも銃が乱射される国になってしまったのか?動物は滅多に共食いはしないのに、それより高等生物(とされている)人間はなぜこれほどまで殺しあうのか?家族や社会が持っていたはずの犯罪抑止力はどこに行ってしまったのか?そんなことを問いかけているのではないでしょうか?エンドロールを観ながら、サイモン&ガーファンクルのサウンド・オブ・サイレンスの一節『People talking without speaking People hearing without listening』が浮かんできました。ネタバレかもしれませんが、重要なのは『息子たちとの付き合い方がわからない』と教会で懺悔したセリフ。よく聞く話ですが、現代では親子間・世代間で意思の疎通がはかりにくくなってきているといわれます。お互いのことがよくわからないので余計なことを話そうともせず、相手の話もちゃんと聞こうとはしません。ますます溝が深まり、やがて同じ価値観を持つ者で集まり始める。その集団の中でも“余計なことは話さない/話をちゃんと聞かない”という癖は抜けないので、ジョークの1つも無い閑散とした集団になる。度が過ぎてなくても口の悪いジョークを言おうものなら、徹底的に批判され弁明の余地は与えられず集団の中で孤立する。皆孤立を恐れ、ますます余計な会話をしなくなる。また、価値観の違う集団どおしで問題が起こった場合、お互いに冗長力や傾聴力が未発達のためすぐに争いとなり実力行使になります。アメリカの場合、それが銃なのでしょう。冗長力や傾聴力を養う最小の集団単位は、家族や近所です。しかし上記のセリフのように、アメリカでは家族や近所でさえその機能が正常に動いていないのです。そしてイーストウッドは見つけます、この機能が正常に働いている集団を。それが隣に越してきたモン族の家族です。ただし、彼らの出身は東南アジアの山岳地帯。イーストウッドは訴えます。家族の機能がちゃんと働いているのはニューヨークでもなくカンサスシティでもなく、ロンドンでもパリでもイスタンブールでもない、トーキョーでもソウルでもペキンでもプノンペンでもジャカルタでもクアラルンプールでもない、東南アジアの山岳地帯という秘境みたいなところにしか、もう残っていないのだと。しかし、彼は希望も与えます。それは正常な家族が“隣”に住んでいるということ。『汝の隣人を愛せよ』じゃないですが、もし自分の家族がうまく機能してないなら周りを見なさい、テレビやラジオの人生相談に投稿する前に周りを観察してみなさい、そこに答えがあるかもしれない、そしてそこから学びなさい、と。ウォルトもそれに気付きますが、ちょっと遅かったのかもしれません。でも、気付いた証として、この家族を守らなければという強い意志の表れとして、最後にあのような行動を取ったのだと思います。グラン・トリノは何の象徴でしょうか?古き良きアメリカ?そんな陳腐なものじゃないでしょう。冗長力と傾聴力に長け、包容力のあったちょっと昔の人間社会ではないでしょうか。タオ少年は、そのグラン・トリノをウォルトから譲り受け、今どんな気持ちで運転しているのでしょう・・・・
・・・・こんなんでどうでしょう?もう限界w 書いてるうちに映画と全く関係ない方向に逸れそうになったので、無理矢理軌道修正しながら書きました。だからツッコミどころ満載でも許してね。個人的にも大きくツッコミ入れたい所が1箇所あるのだが、そうするとまたとんでもない方向に感想が行きそうなので敢えて書いてません。さて、次は軽い映画でも観るか?
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